KOSUGI iHUG|「農・食・健」複合型のコミュニティスペース

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本プロジェクトについて

優先交渉権者に決定した東レ建設を代表企業とするグループと協議が整いましたので、事業者として決定し、令和3年2月2日基本協定が締結されました。

川崎市総合自治会館は、令和2年6月に竣工した「Kosugi 3rd Avenue」に移転したことから、周辺地域の抱える課題や地域ニーズ等への対応を図りながらその跡地等を有効に活用するため、同年2月に策定した「総合自治会館跡地等の活用に係る土地利用方針」に基づき、事業者の募集が開始されました。

「総合自治会館跡地等※の活用に係る土地利用方針」に基づき、実施した事業者募集に応募のあった事業者のうち、川崎市民間活用推進委員会(総合自治会館跡地等の活用に関する民間提案審査部会)の審査や社会変容等を踏まえ、優先交渉権者に決定した東レ建設を代表企業とするグループと協議が整いましたので、事業者として決定し、基本協定が締結されました。

※川崎市HPより
https://www.city.kawasaki.jp/500/cmsfiles/contents/0000125/125481/jigyosyakettei.pdf

地域からの要望に応えた
土地利用方針

image photo

二ケ領用水とのかかわり

イラスト概念図

基本計画

⼆ヶ領⽤⽔は、農業が⽣活の中⼼となっていた江⼾時代から明治時代には、約189.4km(推定距離)にも及ぶ我が国有数の農業⽤⽔でした。
そこには、⼆ヶ領⽤⽔を中⼼とした地域共同体が形成され、きめ細やかに管理された「⽔⽂化」がつくり上げられていました。
時はめぐり、昭和30 年代以降の⾼度経済成⻑期の急激な都市化の中で、往時の豊かな⽔の流れの姿や、⽔とともにあった暮らしの多くが消失しています。
しかしながら、⼆ヶ領⽤⽔が現在の川崎市の⾻格をつくりあげたことは疑う余地もなく、現在では治⽔・利⽔機能上の⼤切な役割を果たし、同時に都市における貴重な⽔辺空間として市⺠に親しまれています。
⼆ヶ領⽤⽔総合基本計画は、平成5(1993)年3 ⽉に「⽔網都市川崎の創造・⽔循環都市川崎の構築・防災都市川崎の構築」の3つの基本⽅針を柱にして策定されました。

基本理念

水文化都市川崎の創出

・二ヶ領用水を都市環境の姿を示す指標として捉えながら、川崎市固有の環境・歴史素材として、21世紀に向けた新しいまちづくりの中に取り入れ、潤いのある都市風景を創出させる。
・市民が深く二ヶ領用水を知り、係わり、親しむことにより、川崎市民相互の理解と市民としての共感を形成させるなど、「都市再生」や「市民親交」の成熟過程において、二ヶ領用水を通じた”新たな水文化”を創造していく。

水文化都市川崎
の創出

⼆ヶ領⽤⽔の歴史

⼆ヶ領⽤⽔とは、慶⻑16(1611)年に竣⼯した我が国有数の古い農業⽤⽔です。
江⼾時代に稲⽑領と川崎領にまたがって開削されたことに、その名は由来します。
網⽬のように設けられたこの⽤⽔を中⼼に地域共同体が形成され、川崎市の⾻格をつくり上げていました。

⼆ヶ領⽤⽔の建設は徳川家康に命じられた⽤⽔奉⾏⼩泉次⼤夫の下に、地域の農⺠が⼒を合わせ、14 年の年⽉を費やして慶⻑16(1611)年に完成しました。
⽤⽔の完成によって、稲⽑領と川崎領の⽶の⽣産量は⾶躍的に伸びました。

しかし、開削から100 年が経過した江⼾中期には、各所で⽼朽化が⽬⽴つようになったため、御普請役⼈の⽥中休愚の下、「上河原取⼊⼝圦樋」や「久地分量樋」など⼤規模な改修が⾏われ、江⼾中期には60 ヶ村、約2,000 ヘクタールの⽔⽥に⽔が引かれるようになりました。
その後も⽔⽥は増え続け、明治42(1909)年には最⼤の約2,850 ヘクタールとなりました。

⼆ヶ領⽤⽔を利用した生活の様子(昭和12(1937)年)
二ヶ領用水総合基本計画

現在の⼆ヶ領⽤⽔と市⺠とのかかわり

二ヶ領用水では、沿川の住民が散策や水辺に親しむほか、二ヶ領用水を舞台として新旧様々な市民団体が活動しています。
清掃活動や桜や桃の植樹と管理、魚つかみ、散策ガイド、ウォーキング、歴史研究・竹炭を利用した水質浄化等、様々な活動が実施されています。

かわさき水辺の
楽校での魚つかみ
(平成22(2010)年8月)

マジックハンドを使った清掃
(平成23(2011)年11月)

みんなで歩こう⼆ヶ領⽤⽔
(平成22(2010)年9月)

⼆ヶ領⽤⽔一斉清掃
(平成22(2010)年11月)

新しくなった⼆ヶ領⽤⽔側道(令和5年(2023)1⽉時点)

※掲載の情報は、川崎市「二ヶ領用水総合基本計画」より引用しております。